芦屋に親戚が住んでいた事が縁で芦屋が気に入ってしまい、是非芦屋で開業したいと思い呉川町を開業地としてえらびました。
病院の前の通りは花水木通りという非常に美しい名前が与えられていて、鯉が優雅に泳ぐ水路がさらにその通りを引き立てています。
僕はこの場所が大好きです。
そこで開業させていただくので近隣の皆様のお役にたちたいと常に考えております。
これから自分の生い立ちをお話したいと思います。
小学校のころの私は親の言われることを忠実に実行する “いい子”そのものでした。父親は私の小さいころから“教育パパ”ぶりは凄く小学校から帰ると父親手作りの漢字練習帳を毎日決められただけこなしていました。
さらに英会話、習字、そろばん、水泳教室など習い事の予定で週のほとんどが埋まっていました。
そして小学校高学年になると進学塾に入り中学受験のために平日はもちろん、休日になると 1日2食弁当を持って塾に行き、ハチマキを巻いて1日中授業を受けていたのを思い出します。 そのおかげで成績はよく、有頂天になっていたところ、某付属中学の入試で落ちてしまい 最初の挫折を味わいました。さらに“負けたくない”と思っていたライバルが合格しておりショックを受けました。ここでこの悔しさが原動力になり、自分の成績では絶対無理といわれていた中学にターゲットを絞り、短期間のうちに猛烈にがむしゃらに勉強しました。その結果、大阪星光学院中学に合格したのです。
なんとか受かった中高一貫の星光学院での学生生活が始まり、まわりから「いい学校に受かったねー!」と褒められていい気分になっていたのもつかの間、大変なこと気がついたのです。 まず、小学校時代の自分の成績はトップクラスだったのが、周りがみな秀才なためにごく平凡な生徒に成り下がり、授業についていくのが大変だと気づきました。さらに、男子校なので女の子がいないことに気がつき違和感を覚えました。
そんなわけでまた勉強、勉強のガリ勉の日々が始まったのです。試験の点数を先生が全員の前で点数のいい人順に発表するのですが、「うおー、まだ呼ばれない、いったい自分は何点なんだぁ~」と、いつもドキドキしていました。そんな大変な学校生活を送るなか、クリスチャンの学校 だったので毎朝神父様の放送朝礼がありました。そのお話は、校訓である“世の光であれ”という教えが根底にあるものが多く、その言葉が自分の中に刻み込まれました。この言葉は自分の人生において、とても影響を与えた言葉で、 自分が医療の道に進んだきっかけになったといっても過言ではないと思います。
また星光学院の友人は皆いい奴ばかりで、ちまたでいう“いじめ”などはなくその点では今でもすばらしくいい学校だったと思っています。
その後、高校にもそのまま進学でき、今後の進路を気にすることが多くなりました。 いったい自分には何の仕事が向いているのだろうか?と。
そんなとき小さいころよく言われた父の 「崇稔(たかとし)は人の痛みのわかる人間になりなさい。」 という言葉を思い出しました。寡黙な父だっただけに印象に残る言葉でした。そして当時、歯並びが悪かったため矯正の治療を長らく受けていました。いろいろと苦労をした経験があり、歯に興味を持つきっかけになり、 「僕は歯医者になろう」と心に決めたのです。そして進路を歯学部に定め、一年浪人した後、 福岡県立九州歯科大学に入学しました。
親元を離れ一人暮らしを楽しみにしていましたが、いざ独りになってみるととても寂しいと感じたのをいまでも思い出します。また掃除、洗濯、食事と自分で何でもしなければならず、今まで親がしてくれていた当たり前のように思っていたことの大変さが身にしみてわかり、親への感謝の気持ちが湧いたことも思い出します。
一人暮らしをして、料理が得意になり自炊をしていました。得意料理はシチューです。大学生活が始まりまずしようと思ったのはクラブに入ることでした。中高時代ついていくのに必死でクラブ活動なんてしている暇はないと思っていましたが、やはり人格形成や先輩後輩という強固な人間関係などには不可欠なものだと気づいたからです。
そして選んだクラブが「ワンダーフォーゲル部」でした。簡単に言えば山登りのクラブです。あと、サイクリングやキャンプなど泊まりは全部テントです。なぜこのクラブを選んだかというと、中高時代に登山合宿がありわりと楽しいと感じ、登山に興味があったことや、ほかのスポーツと違い、勝負による勝ち負けが無く目標設定が自分自身でできると思ったからでした。
そんな軽いのりで入ったクラブでしたが実際はそうではありませんでした。最初はお客様で先輩もちやほやしてくれましたが数ヶ月たち夏の合宿前になったときのことです。ある日部室に行くとポリタンク、そうあの石油を入れる容器(20リットル缶)がたくさんあり、それを担いで階段の上り下りの練習が始まったのです。さらに休日には近くの山に30キロくらいの荷物を担いで練習をするのです。先輩そんなの聞いてませんよーというと「えーそうだっけ???」とはぐらかされひーひー言いながら登ったのを思い出します。
そんな練習を重ね向かったのが長野県の北アルプスでした。3人パートで全行程12日の縦走です。荷物の重さは40キロほどありましたが練習の成果かそんなに重く感じませんでした。朝4時ごろ起床して1日8時間くらいの行程で前進します。先輩お二人は僕を前と後ろで挟んでペースを見ながら進んでくださるのですが、ついていくのが必死できれいな景色を楽しむ余裕も全くありませんでした。 あるとき疲れすぎてもう進めなくなり、リーダーの先輩が自分の荷物とさらに僕の荷物ももって助けてくれたことがありました。
悔しかったけれど自分でも限界で、助けていただいたときは本当に先輩が頼もしく見え、感謝の気持ちでいっぱいでした。そして最後、全行程を終え上高地の河童橋で三人並んで写真を撮ったときは感動で自然と涙が溢れ出しなんともいえない達成感を覚えたことを昨日のことのように思い出すことができます。
あとこのクラブに入り日本最北端、最東端、最南端を制覇し、紀伊半島と四国一周をサイクリングで制覇しました。小さいころには神経質でなかなか寝付けなかったのが、ワンゲルでの生活のお陰で、今ではのび太くんなみに素早く寝れるようになりました。(テントの中で先輩のいびきがうるさく、先に寝ないと眠れないので自然と習得した技です。)そして勉学のほうも、何とか6年間スムーズに送ることができました。
6年生の大変な病院実習を終え、最後の歯科医師免許のための国家試験では本当に人生で一番勉強したと思えるほど毎日朝から晩まで図書館で勉強したのを思い出します。このときの一緒に励ましあい頑張った友人は今でも無二の親友です。
卒後の勤務場所を選ぶためにいろいろな先生の元に見学に行き、お話を聞きました。その中で南歯科医院の南先生と出会ったときの衝撃は忘れられません。全くほかの院長先生と違う印象を受けました。患者さんの事を第一に考え日々の診察に当たっている真剣な姿勢がダイレクトに伝わってきました。
この方が僕の恩師である南先生でした。とにかく先生の人柄に一目ぼれして、是非ここで働きたい、この先生の元で働きたいと思いました。やっと探していた自分の場所を見つけた思いでした。幸い南歯科に迎えられ、勤務を始めました。その医院はドクター4人、スタッフを合わせると30人を超える大きな病院です。1日患者さんは100人以上来院され、目も回るぐらい忙しいけど、いいテンポで患者様が回っていくそんな病院です。
最初は何もできず、本当にこの職業を選んで正解だったのだろうか、と悩んだ時期もありました。しかし、院長先生はそんな僕を優しく見守ってくださり徐々に患者さんの数も見れるようになり、感謝のお言葉をいただけることも多くなるようになりました。がむしゃらに頑張るうちに何とか一通りのことはこなせるようになったと思います。そして、副院長を任せられるようになり、さらに自分自身のステップアップのために東京、名古屋、近畿一円いろいろな講習会に自ら参加しどん欲に技術力向上のための自己研鑽も怠りませんでした。
自分の技術が向上すると、その人のお口の行く末がある程度分かるようになります。そして「もう少し早めに来てくれていたら・・・、もう少しお口のことに興味を持ってくれたら・・・、救えたかも。」自分の力だけでは限界を感じることがでてきたのです。
そんなことがきっかけで“予防”の大切さがわかってきたのです。自分の病院を持ったら予防中心の歯科医院を作っていこうと考え始めていました。そんなことを考え開業準備を進めていきました。